岩手県唐丹町の柴 琢治   

柴琢治は、気仙郡唐丹村(現釜石市)の医師である鈴木三折の次男として生まれました。少年時代は地域で一番の暴れん坊でしたが、1877年(明治10)頃に上京して警視庁巡査となり、その後、大阪で検事の書生として法律を学びました。1890年(明治23)父の訃報に接し帰郷した琢治は、医師である兄の助手をしながら医術を学び、1892年(明治25)に限地開業(医師のいない地域限定の開業)を許されました。

1896年(明治29)6月15日の晩、津波が村を襲い、釜石地方は大きな被害を受けました。琢治は自宅を開放してけが人を収容し、救援の医師たちが駆けつけるまで不眠不休で手当を続け、村の救済復旧のために奔走しました。

1898年(明治31)4月、唐丹村議会の満場一致をもって村長に任命された琢治は、早速村の復興に取り掛かり、小学校・村役場の再建、宅地造成と住宅建設の助成、道路改修工事などを計画します。村の指導者たちが復興費用の捻出に頭を悩ませていたところ、琢治は村有林の立木売却を提案し、自分の全責任で村の財政再建にあたると豪語しました。実際は村有林に隣接する帝室御用林の盗伐が狙いであり、後に琢治に司直の手が迫ります。しかし、盗伐の発端が被災地復興のための窮余の行為であったこと、また、売却に際して私利私欲が存在しないこと、何より村民の琢治に対する思いから、裁判所側の心証も同情的となり、ついに証拠不十分として釈放されました。「いわて復興偉人伝」より

村長になった柴琢司は、災害が来ても被害に遭わないように桜並木を作って、この桜並木より下には家を作らないようにといった教訓を残していたのです。ところが、防潮堤の大きいものが海岸にできたことで、桜並木より下に住宅が建ち始めたのです。
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今回の大災害で桜並木の下の住宅は全て波に飲み込まれてしまって、新築の家が並んでいた当時の姿はありませんでした。防潮堤を見て確かに大丈夫だと思う気持ちも良くわかりましたが、先人たちの教訓は今回も活きていたのでした。
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桜並木のところまで波が押し寄せたのですが、一階の部分が被害を受けただけで、被害に遭われた人はいなかったのです。桜並木は地域の皆さんの目に留まるように大きく成長していたのに、当時の村長の柴琢司の教訓が活かせれることがなかったのです。

それにしても、過去の大災害の復興の中で、住民の助かるための環境整備を数多くされていることも、現地の姿を確認することで理解することができました。避難道路も山のほうに行けるように作られていたのに、本当に悔やまれてなりません。

このような事実をしっかり受け止めることが、行政や議会に求められているのだと思います。目の前の華やかさなどに目を奪われ、先人たちの教訓を活かすことができなかったことは、行政と議会は猛省すべきだと思っています。このような事は、全ての自治体に言えることであります。
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by magome2007 | 2013-11-10 10:07

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